アメリカで子育てをするアジア系の母親として、子どもが初めて経験した「人種」が原因で起きた出来事は決して忘れることができない。
心の準備はしてきたつもりだった。異なるルーツをもつ両親から生まれた子どもが、「人種」のことで何か言われる日が来ることはわかっていた。好奇心からの言葉であればいい方で、非難されることもあると思っていた。
だから、事前に準備をしていた。アジア系ということでからかわれたり、馬鹿にされたりしてきた経験が私自身にあるため、片方の親がアジア系である娘が似たようなつらい経験をした時に対処する特別な資格があると思っている。
しかし、最初の出来事は想定外の形で発生した。
子どもは現在小学4年生。クラスメートたちは今週、娘について驚くべき発見をした。アジア系だと知ったのだ。多くのクラスメートを驚かせたこの衝撃の事実は、小学校での経験にふさわしい、つまり屈辱的で傷つく方法で展開した。
きっかけは、授業で旧正月について取り上げられたことだった。友だちと話す中で、娘は自分がアジア系であることに何気なく触れた。すぐに教室全体に広まり、クラスメートたちは全員が驚きに息を呑んだ。
「待って、アジア人なの?!」
「見えないんだけど!」
「ねえ、みんな、見て、アジア人だって!」
学校から帰ってきた娘からこの話を聞いた私もまた信じられない思いだった。
「待って、みんなあなたのことを白人だと思っていたってこと?」
確かに娘の父親は白人だ。母親である私の韓国人っぽさと白人の父親の間に生まれた娘は、父親によく似ている。父親と同じで肌の色が白く、髪の色は明るい茶色、長いまつ毛が大きい目をふちどっている。
それでも、クラスメートたちが娘のことをこれまでずっと白人だと思い込んでいたとは驚いた。母親の私は、娘のことを白人でありアジア人として見てきた。娘はどうなのだろう。これまで人種的アイデンティティを話題にすることも考えたこともなかったクラスメートが、娘に対する見方を変えたことに困惑し、動揺している。
10歳にもならない娘にとって、民族性はアイデンティティのほんの一部にすぎないのだ。多くの子どもと同様に、娘は「サッカーに熱中している」「車内で楽しく歌うのが好き」「無類のドーナツ好き」「アイスクリームが嫌い」など自分がどんな人間なのかを表すわかりやすい特徴を共有したがる。
私は娘が生まれる前から、この日が来ると心づもりしていた。「あなたって何者なの?」という娘が受けるであろう定番の質問を含め、あらゆる攻撃に対抗できるように想定問答集をこっそり用意している。娘には小さい頃からいろんな答え方を教えてきた。アメリカ人、白人、アイルランド系、韓国系、アジア人、アジア系アメリカ人、ミックスルーツ、ルーツの違う両親がいる…などだ。どれをとっても間違っていない。もし、単純な事実に納得せず外見のせいで無視されたり、侮蔑されたりするようであれば、何か気の利いたことを言い返すか、冷ややかな目で見るなどするようアドバイスしている。
片方の親が白人である娘の場合は、私自身の経験よりもマシかもしれないと期待していた。娘が「みんなと違う点」は、アイデンティティの半分に過ぎないと自分に言い聞かせてきた。発音しやすい名前であることや、アジア人への侮蔑に使われるアーモンドの形をした目をしていないため、私のようなひどい経験をせずに済むかもしれないと思っていた。
しかし、娘が今回教室で経験した出来事を受け、私は自分がいかに間違っていたか気付かされた。「何かの半分」であるという状態は、より難しい人生の舵取りを求められかねないということを見過ごしていた。親という立場から子どもが差別を受けることばかり心配して、不信感を持たれることは想定していなかった。
ルーツが複数ある人は、「あなたは何者ですか」という厄介な質問によってできた傷口に、究極の侮蔑という追い打ちをかけられがちだ。
証明してみせてよ。
娘がアジア系だと知ったクラスメートのうち数人が顔をしかめ、変な顔をしてきた。そして、矢継ぎ早に答えづらい質問を投げてこられたという。「アジア人っていうことは、旧正月もお祝いするの?」「キムチは食べたことある?」「キムチが嫌いってどういうこと?」「韓国語で何か言ってみて」「なんで韓国語話さないの?」「だって、自分のこと韓国系だって言ったじゃん」
クラスメートたちは子どもだから仕方ないと娘に言ってあげたかったが、今回の出来事は生涯にわたって受け続ける文化的な試練の序章に過ぎないのだ。
娘のことを白人だと思い込んでいたかと思えば、アジア系の民族性を証明させようとするワンツーパンチは、私自身には未知のことだ。私はミックスルーツではない韓国系で、ひどい人種差別を受けてきた。歌うように「チン・チョン」と言われるのは残酷なものではあったが、そこに複雑さはなかった。私の異質さは疑問視されなかった。なぜならば、私はアジア人にしか見えないし、「おかしな発音」の名前だったこともあって、異質である資格を持っていたから。
私が用意した想定問答集は、娘がアジア系であることを理由に詮索され、差別されることを前提にしていた。娘のことをまわりの人たちがアジア系だと見なさないということを考慮に入れていなかった。娘が置かれた特殊な状況への配慮を欠いていた。
娘のためにすべての答えを用意してあげられているわけではない。しかし、これから続く娘のアイデンティティを模索する旅は、まずは私が自分の思い込みを正すことで手助けすることができる。私がすべきことは、他人が娘の人種をどう見るかの責任は本人にないことを伝え、他人の気持ちを落ち着かせるために何かしなければと思う必要はないと教えることだ。
娘はこれから、白人であることとアジア人であることで受ける不平等と恩恵を経験しながら自分の人種的アイデンティティを学んでいく。私は母親としてそばにいて支えながら、一緒に学んでいく。
私が娘を見る目は不変だし、娘には自分のことを「何かの半分」ではなく両親それぞれのルーツと文化からいいところを受け継いだ「完全なもの」として見て欲しいという思いを伝えながら、子育てをしていくつもりだ。
ハフポストUS版の記事を翻訳しました。