
1993年の総選挙で自民党は過半数を割り、野党に転落した。このときに離党した石破茂を、重鎮たちは「後ろ足で砂をかけて出ていったヤツ」と評する。しかもその「裏切り者」は、復党を許された後もことあるごとに執行部への批判を繰り返し、「味方のフリして後ろから弾を撃ってくる男」として警戒され続けた。そんな彼がいまや自民党総裁におさまり、我が国の総理大臣の職責を担っているのは、なぜなのだろうか。※本稿は、石破茂著、倉重篤郎編集『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
1000円払えば誰でも投票できる
日本初の党首公選制で小沢が勝利
1995年、海部俊樹先生のあとの党首を決めるにあたって、新進党は日本初の党首公選制を実現しました。それは党員でなくとも、18歳以上の日本国民であれば、1000円払えば一票投票できる、というものでした。私は羽田派、船田元先生のもとでこの公選規程の政策にも関わりましたが、紆余曲折を経てそのような制度になり、羽田孜対小沢一郎という党首選挙に突入しました。なにしろ1000円払えば誰でも投票できるわけですから、文字通りカネがものを言います。投開票日が近づくほど、ものすごい数の組織票が小沢候補に集まり、1995年12月、小沢党首が選出されました。
党運営の主導権を巡る小沢派vs羽田派の党内抗争の顕在化にも苦しめられました。小沢派に対抗し、新井将敬さんが会長で私が幹事長を務める羽田派グループ活動みたいなものもやらざるをえなくなった。もちろん羽田さんのことですから、金配りをするわけでもなく、週に1回ニューオータニに集まってカレーを食べるぐらいのことでした。しかし、政策論議は遅々として進まず、派閥抗争的なものに身をやつしている私も当選3回。九段議員宿舎に帰る度に、今日1日は一体何だったのか、何のために政治家になったのか、と自問自答ばかりしていました。
集団的自衛権を巡る
石破茂vs岡田克也の論争
そんな苦境が続く中、村山富市政権下(編集部注/1994年6月に発足。社会党委員長の村山を自民党と新党さきがけが担いだ)での参院選の運びとなりました。1995年7月23日施行の選挙では、鳥取県(改選1議席)も新進党対自民党の構図になりました。負けるわけにはいかないし、実際に負けることはありませんでした。
私も全面的に新進党推薦の候補者の応援に回り、「自民党が社会党の村山さんを担ぐという奇想天外の策で政権奪取する。そんなことが許せますか。皆さん」、あるいは「昨日まで自衛隊を違憲と言っていた、その人が自衛隊の最高指揮官になる。そんな日本があっていいと思いますか」。こういった演説を連日繰り広げ、公明党の全面的な協力も得て、鳥取では新進党推薦の候補者が勝利しました。